【布袋戯】とは?⑥『台湾の布袋戯2:「金光」から「霹靂」へ』

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【布袋戯】とは?---その⑥『台湾の布袋戯2:「金光」から「霹靂」へ』

1950~60年代に、「金光布袋戯」という布袋戯が登場する。

これは、霹靂布袋戯の誕生への第一歩とでもいえるような、布袋戯史上においてターニング・ポイントとして記されるものである。

「金光布袋戯」は、商業性、娯楽性に重点を置いた、観客の興味を惹きつける演出方法で、これまでの布袋戯とは大きく異なったものだった。
木偶は45センチ程に大型化した。
テレビの普及と相乗して、テレビ布袋戯が登場、黄 俊雄氏による「雲州大儒侠・史艶文」の放映が始まった。この「雲州大儒侠・史艶文」は大ヒットし、「黄俊雄」=台湾布袋戯とまでいわれるほどに。

こうした布袋戯の変化は、観客層を広げ、
布袋戯劇団の追っかけに熱中したり、布袋戯を観るためにテレビから離れなかったり、学校をサボる学生が出たりと社会問題も生じた。
また、「雲州大儒侠・史艶文」は台湾語を使っていたが、これが当時政府が推進していた「国語運動」(北京語を使えという運動)の大きな阻害になるとされ、1974年に一時、放映禁止とされた。
禁止令後、黄俊雄氏は北京語を使った北京語布袋戯を作るが、北京語布袋戯は大衆の共感を得られず終わった。
このことは、台湾語が布袋戯の重要な骨組みのひとつであることの証しだろう。

政府の禁止令などにもかかわらず、新たに布袋戯についた火は消えず、1980年代後半には黄 俊雄氏の長男(黄 強華氏)と次男(黄 文擇氏)、が「霹靂衛星電視台」という専用テレビチャンネルを設立。
映画撮影の技術を取り入れた、霹靂布袋戯のシリーズはここに始まった。

—>> その⑦ は 『台湾の布袋戯3:黄氏兄弟&大霹靂』


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